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自殺した子の写真に関して、世間とは逆の意見をする

青森県黒岩市の夏祭り写真コンテストで、優勝した写真に自殺した子が写っていたらしい。それを受け、「不適切」と市が一旦取り下げたが、抗議が殺到して最高賞に返り咲いたらしい。 自殺した中2写る写真、一転して最高賞に 青森・黒石 みんな、「取り下げた市はひどい」と、いい子ぶった気持ち悪いコメントばかりしているから、あえて僕はその逆をいいたい。 僕はこの写真を見て、純粋に「こんなのが一位なの?」って思った。純粋に見てください。これって結構普通の写真じゃないですか?家族のアルバムだったら、一ページの引き伸ばしで載せるものかもしれないけど、そこまですごい写真ですかね。 自殺した子という情報が出ているということは、きっと親はそういう情報を載せてこの写真を送ったんですよね。気持ちはわからなくもないけど、純粋な写真コンテストにそういう感情を入れて、同情を買おうとするところがちょっと違うんじゃないかなと思う。この写真を選んだ側も、「自殺した子がかわいそうだから、一位にしてやろう」と思っていたのなら、それはやっぱり違うと思う。 これに似たことで、よく亡くなったお父さんとかお母さんのことを動画にして、facebookにして載せる人がいる。 なぜこういう人たちに、僕が嫌悪感を示すのかと言うと、そういう人たちはただ家族を大事にしている自分はいい人でしょってアピールしているようにみえるからだ。だってそう思わないとわざわざ公開しないでしょ。それに、「いいお父さんだったんだね」とかいうフォロワー。そういうフォロワーも「家族を大事にする人を賞賛する自分はいい人」というアピールしているように思えるのだ。 ただ、それだけなら別にいい。問題なのは、一方を褒めることによって自動的にもう一方を蔑むことになるということだ。例えば、今回の自殺した子の写真の件を必死に世間にアピールする親がいて、一方は自殺した子がいるがひっそりと何も語らない親。フォロワーは前者を賞賛することで、間接的に後者を蔑んでいることになるのではないか。少なくとも、後者はそう感じるのではないか。 僕は基本的に後者。僕はだれからも賞賛されたことなど無いし、逆にだれかが褒められることで僕がダメ人間であると思われてるんじゃないかという勝手な悲壮感を受けているのである。 どうしたって、あっちがたてばこっちが立たず的な状

このブログは、僕が書きたいものを書くブログである

スウェーデンに来たのを気に、ブログ村に登録した。そのおかげでこのブログの閲覧数も増えた。ブログを公開している以上閲覧してくれる人が増えるのは嬉しい。 コメントをしてくれる人も増えて、その中にはスウェーデンに住んでいる方もいらっしゃって本当に色々と情報をいただけてありがたいです。 ただし、そうなってくるとこのブログが純粋なスウェーデン情報のブログになっていきそうな気がしたので、あたらめてこのブログはどういうものかを定義したい。 このブログは、僕が書きたいものを書きたいときに書くブログである。 そして、僕は決してfacebookのようなリア充アピールはせず、思ったことを正直と書くことにする。 というのも、このブログはスウェーデンに来る前からずっとやっていて、前のはてなブログの時から見てくれている人もいる。その人は僕のダメ人間っぷりを見に来てくれている人もいるので、あまりにスウェーデンの内輪ネタのことばかり書くと、その人達を置いてけぼりにしてしまいそうで。 ということで、これからも上品なことを書かないようなブログにする。それを不快に思う人もいるかもしれないが、閲覧数を気にすることなく、本音が言える場にしたいのである。そのついでに、このブログを見た閲覧者が、自分より下のやつがいるんだと思って安心してくれれば嬉しいのである。

人を感動させようとする人間になりたい

友人に連絡をした。僕が日本にいるときに、中国語の先生をしてくれた人でその関係が終わってもよく一緒に遊びに行っていた。10月末に中国に帰ることになっていたが、まさか僕のほうが先に日本を離れるとは思わなかった。 その人の性格は、僕とは真反対。常にポジティブだけど、前進主義の疲れる感じはしない。花と一緒に自撮りを撮って楽しむような人。9月の終わりにその人と会って、ちょっと悲しかったけど別れるときには「大丈夫よ、また連絡しよう」とあっさりと言ってくれて心が軽くなった。 スウェーデン入国直後に連絡して、それから今日2週間ぶりに連絡をした。あっちも中国に帰る準備で忙しいらしい。僕も日本を出国する際の準備を最近体験したから、その大変さや寂しさはよくわかる。そして、その人にとっては外国である日本で生活していたことの大変さも今はよくわかる。その上であんなに楽しそうに振る舞っていたのは本当に見習うべきだなと思った。 その人が写真を送ってくれた。友人がお別れ会を開いたらしく、ケーキの写真が届いた。そこには、チョコレートで「幸せになってね」と書かれてあった。 僕はそれを見て純粋に感動した。今まで人を祝う理由が全くわからなくて、結婚式にも行くことはなかったし、贈り物なんてしたこともなかった。でも、その人と別れるときには、恥ずかしくて「ありがとう」も言えない自分が悲しかった。だから、純粋に感謝を伝えられる人や、それを素直に喜んでくれる人ってやっぱりいいなぁと思う。 人間って人を感動させるために、生きているのかもしれない。だから来週から一生懸命人を感動させることを常に考えて生きていこう。本当にできるかわからないけど、どうせタダなんだしやってみよう。

死んだっていいのだ。だから落ち込まないようにしよう。

僕は、人生に関わるような大変な失態を犯したかもしれないことに気づいた。 とても今は言えないが、言える時が来れば僕みたいなバカな失態を犯さないように、ちゃんとこのブログで伝えたいと思う。 それはともかく、そのことに気づいた僕は一気に落ち込み、食事もできなくなった。 かと言って、自分で何か改善できる事案ではない。 とにかく、この落ち込みを改善しようと、すぐに帰り寝ることにした。肉体の疲労がなくなれば精神的にも落ち着くということを、何人かが言っていたからだ。 夜6時になり、風呂にも入らずすぐベッドに入ったがなかなか眠れない。先週までは時差ぼけのおかげで9時には寝ていたのだが、運悪く完全に時差ぼけは治ったみたいだ。 一旦は寝たみたいだが、すぐに目が覚めた。時計は夜の8時。はっきりと起きてしまい、しばらく寝れそうにない。失態のことが頭から離れず、本当に苦しかった。 こういう時は、とにかく孤独感を感じる。世界には誰も味方はおらず自分だけが責められている気分になる。日本にいる時は、とにかく誰かにLINEで連絡したり、コンビニに行って立ち読みしたりしていたのだが、ここではそんなことはできない。日本とスウェーデンは7時間も時差があり、スウェーデンの夜は、日本の深夜。誰も起きていない。僕の家の近くにはコンビニのようなものはないし、そもそも寒いので外に出ることもできない。 孤独感に押しつぶされそうで、とにかく何か音を出しておかないと落ち着かなかったのでYoutubeで日本の動画をかけっぱなしにしていた。内容が頭に入ってこないほど落ち込んでいたが、それでもだいぶ助かった。 結局いつ寝たのかわからないが、起きた時には朝の7時だった。つまり12時間以上も僕はベッドの上にいたことになる。翌朝になっても問題は解決はしていないが、悩んでもしょうがないと思うようになれた。そうなると、気分はだいぶ楽だ。 よく、「何があっても死ぬことはない」という楽観的な考えをすれば、救われると言うが、今回の事態は下手をすると死んでしまうこともあるぐらいのことである。もちろん最悪のケースであるがそのぐらい僕にとっては重要なことだ。 しかし、僕は「何があっても死ぬことはない」よりも楽観的に、「死んでもいいじゃないか」と思うことにした。人間は誰もが死ぬ。だから、どうだ

珈琲の国、お茶の国

世界は大きく分けて、珈琲の国とお茶の国に分かれる。国によってどちらが文化に根付いているかが結構はっきりと分かれている。 いくらたくさん喫茶店がいっぱいあるからといっても、日本は完全にお茶の国。お隣中国もそう。 僕が行った国では、同じ東アフリカでもタンザニアはお茶の国、その北にあるエチオピアは珈琲の国だった。 珈琲の国、お茶の国という考え方を最初に知ったのは沢木耕太郎さんの『深夜特急』だった。ちなみにこの本には、お茶の国でも”T”と”C”で2つに分かれるらしい。例えば日本は茶(Cha)と呼ぶし、インドもChaiと呼ぶ。一方イギリスはTeaだし、フランスもTeと呼ぶ。だからといってヨーロッパ全体がTの国かと言えばそうではなく、ポルトガルは、お茶をChaと呼ぶらしい。 この理由が、椎名誠さんの本に書いてあり、今はWikipediaにも載っている。 各国語における茶を意味する語 さて、ちょっと横にそれたが、スウェーデンは完全に珈琲の国である。スウェーデンのコーヒーの消費量は世界で第6位。上位にはほとんど北欧の国が入っており、北欧自体が”コーヒーの地域”である。 スウェーデンにはFikaという言葉がある。その直訳は甘いものを食べ、コーヒーを飲むことで、日本語で言えば「お茶をする」である。この言葉からでも、スウェーデンは珈琲の国で日本はお茶の国だということがわかる。 僕は、持ってきた荷物の中にコーヒーミルと使い捨てでないフィルターを持ってくるぐらい、珈琲が好きである。珈琲の国に来れたのは嬉しいことである。

リーダーでもフォロワーでもいい

(いくつも記事を書いてすみません。海外にいると夜はやることがないのです。) 日本人の方がノーベル生理医学賞を取ったそうだ。最近の日本は本当によくノーベル賞に縁がある。 ノーベル賞を取った研究者が決まっていう言葉が、「人のやらないことをやれ」とか「役に立たないことをしろ」である。曲りなりにも、僕も研究者なのでその気持ちはわかるが、そういうことはただ価値観を押し付けているようにも聞こえる。 仕事に関して、大きくリーダーとフォロワーの二つに分かれる。リーダーは0を1にする職業。研究者とか芸術家とか政治家とか。フォロワーは1を100にする職業。どちらにも一長一短があって、どちらがいいとは言えない。研究者はリーダータイプなので、ノーベル賞を取った人はそちらを勧めるが、世の中がリーダーだけになると無秩序になって回らない。かと言って、フォロワーだけだと社会が進化していかない。 人間は誰しも死ぬのだから、こういう生き方が正解だというのはないと思う。だから、どちらを選択してもいい。ただし、やってはいけないことは自分と違う生き方をする人間を批判すること。 例えば僕は研究者なのでリーダータイプ。だが、社会的には安定しているフォロワータイプの方が好まれる。結婚して子供を作って人口を増やして、定年まで働いて税金を納める。そういうフォロワータイプは生物学的にも社会的にも正解のように思えるので、どうしてもフォロワータイプから批判を受ける。 そして、リーダータイプはそういう批判をするフォロワータイプに、反論する力がほとんどない。実際にリーダータイプは必要とされていない可能性もあるからだ。芸術家で風景を描いているよりも市役所で住民票を渡している方がよっぽど世の中のためになっている言われれば、確かにそうかもしれない。 ただ、そうやって自分が生きている方向と違う人を批判する人は、自分の人生を肯定しようと必死な人なのだと思う。それは、自分の人生に自信がないことの裏返しなのだと思っている。だから、そういう人とはあまり関わらない方がいい。

外国に来て一週間経ったときの心境

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先週の金曜日にスウェーデンに着き、土曜日にこれから住む場所に到着した。そこからちょうど一週間がたった。 8月の真ん中から9月の終わりまで完全なニートだったので、この一週間は体力的に結構辛かった。ニートは精神的に辛いと散々子のブログで書いていたが、拘束時間がないニートは体力的にはやっぱり楽だったのだなぁと思う。 外国に行く一週間前、今まで使っていた物を捨てているときに、感傷的な気分になっていた。未だ使えるものを捨て無くてはならない。お金もないのにそのお金がどんどんなくなっていく。よく行っていた500円ランチのインド料理屋とか、ラーメン屋とか行く度に「あーこれが最後か−」と思っていた。心境としては確実にネガティブ。 しかし、外国に行く日から、到着してからは不思議と感傷的な気持ちはなくなった。毎日のように見ていた景色を見るのもこれが最後と思っていても全く実感がわかない。それよりも、出国するときの手続きや移動に一杯一杯になっていた。入国してからも、どうやって移動すればいいのか、どこで食べ物は買えるのかなど一生懸命になっていて、感傷的な気分になることはなかった。心境としてはポジティブ。 そして、一週間たち、少しだけ生活が落ち着いた。食べ物はここで買えるということも、通勤の方法もわかった。だいぶストレスもなくなってきた頃に、また心境がネガティブに傾いてきた。 前のブログでも書いたけど、まだ旅行に行っているという気分が残っていて、度々日本に帰ってあれ食べようとか、あの人に会おうとか思う。しかしその度に「そう言えばもう日本帰らないんだ」と思って落ち込んでしまう。 僕の同級生はもう結婚して、家まで持っている人も多くいる。そういう人たちに、「いい加減落ち着いたら?」みたいな感じで思われてそうで、ちょっと苦しい。 まぁ、この感情はいつまでたっても消えなんだろうな。だから、消そうと思わないようにしよう。 ちょっと休憩ということで、スーパーでティラミス買ってきました。

スウェーデンにきてすぐ感じた日本との違い

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スウェーデンにきて、一週間ぐらいが経とうとしています。電車の乗り方とかもわかりつつあり、ちょっと慣れてきたので、その前にスウェーデンにきて感じたことをまとめておこうと思います。 1.照明が暖色系 空港についてすぐに思ったのは、明かりがオレンジ色だということ。日本だとおしゃれなレストランならともかく、空港とか駅とか公共の施設はみんな白色の明かりですよね。日本人の僕からすると、ちょっと暗い気もしますが、とてもおしゃれです。 2.犬を連れている人が多い もしかしたら僕が住んでいる場所だけのことかもしれないけど、スーパーの外には、必ずと言っていいほど、犬がつながれていて買い物をしている主人を待っています。それだけでなく、電車の中にも犬を連れている人が多いです。そして何より、この犬たちは全く吠えません。まだ一回も犬の鳴き声を聞いたことがないと思います。しつけがいいのか、もしかすると声帯を切られているのか・・・そんなことはないか。 3.イヤホンで電話をしている人がいい iphoneって、イヤホンにマイクがついていて、手放しで会話ができるじゃないですか。あれをしている人がとっても多いですね。電車の中でも別に電話は禁止ではないらしく、大きな声ではないですがボソボソと電話している人がたくさんいます。 4.なんか静か スウェーデンの人口は東京23区と同じぐらいですから、かなり低密度ですが、それでもストックホルムは人が多いです。とくに中央駅というまさに中心の駅は東京駅のように人が多い。それでもなんか、静かなんですよね。雑音はしているんですが、気持ち悪い静かさというか。もしかするとBGMが流れていないとか、「○○はいかがですかー」というような販売しているときの宣伝がないからかな。

パスポートなんてカードでよくね?

空港に来ると、もうちょっと効率化できるんじゃないかなーと思うことが多々ある。その一つがパスポート。電子化が当たり前の時代に、未だにスタンプを押す制度というのをやめていただきたい。 まず、パスポートの大きさがいけていない。A6サイズの大きさは、財布には入らないし、かといってポケットに入れるとなくしそう。結局専用の入れ物を買ってそれに入れないといけない。 わざわざ人がチェックする必要もない。今は顔認証が当たり前に使われているのだから、機械で十分認証できる。スタンプなんて押しても押さなくても、銀行の口座みたいに、機械で記録しておけばいいじゃないか。スタンプを集めるのが趣味という人もいるかもしれないけど、結局は10年で変えるものだし、過去の記録はほとんどの場合必要ないのだから、スタンプなんかいらない。 だから、パスポートはカードにして、電車の改札のようにカードを入れ、自動で顔認識され問題なければ通れるようにすればいい。そうすればかなり楽なんだと思うけど。

僕も他人の苦労はわからないのだから、僕の苦労も他人はわからないのだ

今回、ストックホルムに住むことになり、色々大変なことがあった。 その一つは引っ越し。僕は独身でかつ家族がいないので荷物を置いておくところがない。だから、使えるものも何もかも、スーツケースに積めるもの以外は捨てるほかなかった。捨てるのにもたくさんのお金がかかった。 市役所とか銀行とかNHKとか、外国に住むことになる際は国内の連絡先を聞かれる。僕はそれを聞かれるのがとても嫌だ。国内の連絡先などないのである。一応親戚の連絡先を書いたが、それは家族ではない。気安く頼むことができない。 ストックホルムに行く飛行機は自腹、アパートも、もちろん自腹。半年間株式会社ブラックで働いた貯金がほぼなくなる。 ストックホルムで働くことになるまでの経緯もとても大変だった。それは研究職で働く人にとって参考になると思うので、改めて書こうと思う。 僕の大変さとは裏腹に、友人たちは呑気なものである。僕が何回もストックホルムに行くと言っても、「どこに行くんだっけ?」とどうでもいいような対応をする。僕の大変さをわかってほしい。 しかし、よく考えれば、その友人だって僕が知らない人生の修羅場をたくさん経験しているのかもしれない。精神的に参ってしまい仕事に行けなくなったとか、離婚したとか。もし、友人がその大変なエピソードを語っとしても僕は「ふーん」と言って話を終えるだろう。 人々は皆、修羅場を迎える。しかしそれは他人には決してわからない。いくら家族が、末期癌になっても、その人の気持ちをわかってあげることは決してできない。むしろ、たくさんの人の苦しみを感じることができるのであれば、とても生きてはいけないだろう。 他人は僕に、苦しみを押し付けたりしない。だから、僕も自分の大変さや「私、かわいそうな子羊なの」感をわかってもらおうと思うのはやめよう。僕が味わう苦しみは、神様が僕に消化するように分配してくれたものなのだ。