セムラと視覚による味の補正

いつも週末は、どこかに行かなければならないという強迫観念があるのだが、ついに行きたいと思うようなところがほとんどなくなってしまった。しかし、世の中には、週末に何もせずに過ごすという人は僕が想像するよりも多いことに最近気づき、何もしなくてもよいのではないかと自分に言い聞かせることが出来るようになった。

日本に住んでいたときは、今よりも田舎に住んでいたので、外に出てもやることはほとんどない。週末にやることは、一年を通して決まっていた。市立図書館に行き、本を借り(ほとんどが読んでも読まなくてもいいようなエッセイ)、チェーン店のカフェでその本を読む。

ストックホルムにも図書館は当然あるが、日本語の本は図書館で借りることはできない。日本の図書館でスウェーデン語の本が置いてないのだから、スウェーデンで日本語の本が置いてなくてもしかたがない。しかし、電子書籍を買うことはできる。ずっと今まで「本は借りるもの」という価値観ができていたので、本を買うのはもったいないと思っていた。しかし、外食一回分の料金と同じぐらいだと思えば大した金額ではないではないので、最近は積極的に電子書籍を買っている。

ストックホルムの中心部にあるスターバックスに行った。そこでセムラとコーヒーを頼む。セムラとは、スウェーデンの伝統的な菓子パンで、カルダモンが入ったパンを二つに切り、生クリームを挟んだもの。

セムラはクリスマス後から四旬節の断食まで食べられている季節ものの食べ物。僕はわりかし季節行事やその時期に食べられているものなどを大切にする。正確に言うと大切にしようとしている。一人身で友達もほとんどいない僕は、クリスマスやバレンタインデーなど気づかないこともあるぐらいだが、それだと一年が想像よりも早く過ぎてしまう。意識的に季節を感じれば、時計を見るように今はどこにいるのかを確認することが出来る。本当は365個の季節行事があればいいのだけど、そんなにたくさんの季節行事を僕は知らない。

セムラの話に戻る。僕は正直セムラはそこまで好きではない。セムラを食べたのはセムラが好きだからではなく、季節を確認するためである。時計を見ても、時計が好きだとは限らないのと同じだ。
なぜ僕はセムラが美味しいと思わないのか。味は悪くない。僕がいつも朝に食べている味のないフランスパンよりもよっぽど美味しい。それにもかかわらず、セムラが美味しいと感じないのは、僕があまりにセムラに期待しているからなのだと思う。見た目がシュークリームに似ていて、パンの中身までクリームが詰まってると思いこんでしまう。実際にはパンの中までクリームが詰まっているわけではないので、想像した味と現実の味の間にギャップが生まれる。

視覚と記憶は、食べ物のおいしさに多大な影響を与える。「おいしい」と感じるということは、想像どおり、もしくは想像していたものの延長線上にあるものである。だから、まず食べ物を目で見て、今までの経験と照らし合わせておおよその味を想像する。みかんは甘く、梅干しはすっぱい。酸っぱいみかんも甘い梅干しもこの世にあるけれど、僕はみかんをみて、すっぱいと想像しないし梅干しを甘いと想像しない。本当に初めて見て、今までの経験から想像できない食べ物はおいしいと感じることはできない。

僕たちは想像できない食べ物を探すことはほぼ不可能だけど、経験の絶対量が少ない赤ん坊はどう感じているのだろうか。一日のほとんどが未体験で埋め作れるのは、きっと気持ちいいことではないはず。東京の小さな会社の事務をしていた人が、突然サウジアラビアでヘルメットをかぶって石油を掘らされるようなものだ。赤ん坊がこの世の終わりかと思うほど泣きじゃくるのは本当に彼らはこの世の終わりのような体験をしているのかもしれない。