村上春樹『辺境・近境』

心優しい人が、このブログにストックホルムで日本の本を借りられるところを教えてくれた。本当にありがたい。詳しい場所はまたこのブログに載せます。

さて、早速借りてきた第一冊目は、村上春樹の『辺境・近境』。小説家の村上春樹が、様々な場所に旅をした話。小説じゃなくてノンフィクションです。

僕は椎名誠が圧倒的に好きだけど、その次は村上春樹。その村上春樹の旅日記なんだから、読んだことないわけない。実際に僕はこの本を日本で借りた記憶は鮮明にある。しかし、いざ改めてこの本をよむと、全く内容を覚えていない。僕は大抵の本の内容を覚えていないのだけど、読んでいくうちに、覚えているフレーズ等があって、そのうち内容まで思い出してくる。しかし、この本に関しては全くの内容を覚えていなかった。その分新鮮に読むことが出来た。

僕自身旅が好きで、今現在もヨーロッパの国をまわっているのだけど、度々「なぜ僕は旅をしているのか」を自問自答することがある。村上春樹自身もおそらくその問いが頭に浮かんできたに違いない。その度に旅自体が意味があるのだと言う発言をしている。その発言を抜粋して載せる。



1ヶ月ばかりメキシコ旅行してる間にそこで出会った何人かの人々からあなたはどうしてまたメキシコに来たんですかという質問を受けた。そしてその度に私は軽い混乱を経験することになった。僕はこれまでにいくつかの国を旅行したけれど、かくのごときある意味においては根源的と言えなくもないような問いかけをされた記憶はほとんどない。
なぜなら、僕は旅行者なので、旅行者というのは何と言ってもどこかに行くものだからだ。彼なり彼女なりがカバンをさげて切符を買ってどこかに行くからこそ、それが旅行として成立する。そしてもし旅行者が、どこかに行かなくてはならないとしたら、どうしてメキシコに行ってはいけないというのか、逆にイノセントに問い返すことだってできる。

例えば日本を旅行している外国人に向かって同じような質問をしたら、たぶんいろんな種類の答え帰ってくるだろう。つまることその答えはひとつしかない。彼は自分の目でその場所を見て、自分の鼻と口でそこの空気を吸い込んで、自分の足でその地面の上に立って自分の手でそこにあるものを触りたかったのだ。ポールセローのある小説の中で。アフリカに行ってきたアメリカ人の女の子がなぜに自分が世界のあちこちを回り続けることになったのかについて語る場面があった。
何かを読む、写真で何かを見る、何かの話を聞く、でも私は自分で実際にそこに行ってみないと理解できないし、落ち着かないのよ。そんなことをしても無意味だし、キリ無いじゃないかと言うかもしれない。でも様々な表層的理由付けを、ひとつひとつ取り払ってしまえば、結局のところそれが旅行というものが持つおそらくは一番真っ当な動機であり存在理由であると 僕は思う。

たっぷりと時間をかけて、車でアメリカ大陸横断旅行してみたいと前々から考えていた。そこには何か目的あるのかと聞かれても困る。特別な目的なのて何もない。「行為自体が目的である」と明確に行ってしまえばそれはそれでかっこいいのだろうけれど。