飯を食うために生きる、それで十分ではないか

生きる目標みたいなものを最近失っていた。何のために生きるのかよくわからなくなった。いつか死ぬのだから、やりたいことをやるべきだといわれても、何がしたいのかよくわからなくなった。

しかし友人と話して、「旅行とか、おいしいもの食べればいいじゃん」と言われ、最終的には納得した。

はじめは、「人の役に立たなくてはならない」と思っていて、旅行や食べることは人生の目標にはなりえないと思っていた。実際にはそうなのかもしれないが、絶望に近い状況にあるときはなんでもいいから、目標というものを立てると気持ちが楽になる。一番簡単なのは「おいしいものを食べるために生きる」とか。

絶望に近い状況にあるとき、目の前が真っ暗になりその先に行く気が失せる。そのときに、車のヘッドライトのような大きな光がなかったとしても、スマホについてるライト程度の明かりでもあれば、ゆっくりと進むことはできる。ゆっくりと進んでいさえすれば、つまり明日まで生きると思い続けていさえすればいつか空は明るくなり遠くまで見渡せるようになる。

それでも、もし「人の役に立たなくてはならない」という感情が抜けきれないのならこう考えればよい。あなたが生きるだけでたくさんの人の役に立っていると。日常生活をしているだけでも無数の人のお世話になっている裏返しに、その人達の助けになっている。服を着れば服屋が助かるし、飯を食えば農家が助かる。

生きていれば、人だけでなく多くの生物の役にも立っている。ペットを飼っていればそう感じるのは簡単だが、ペットを飼っていなくても、人間の腸内に500兆もの微生物を飼っている。人類の人口が70億だから、その10万倍程度の生物を飼っているのだ。もし死んで焼かれればその微生物たちも死んでしまう。生きているだけで充分、世のためになっている。

絶望というのは未来への道が見えないこと。文字通り望みが絶たれること。絶望から抜け出すためには新たな望みを設定するしかない。その時に難しいことなんか考えず、それに意味があるのかも考える必要はない。食べるために生きる、それだけで充分なのだ。