令和8年度「AI for Science萌芽的挑戦研究創出事業(SPReAD)」採択課題の傾向分析:臨床科学および生命科学・薬学領域におけるAI応用の有用性と展望 #学ぶ
1. 序論:AI for Science戦略とSPReAD事業の基本パラダイムと国際的文脈
近年、人工知能(AI)技術の指数関数的な進展は、科学研究における仮説生成、実験計画、データ取得、解析、そして知識統合の全プロセスを根本から変革しつつある。この世界的潮流のなか、米国ではDOE(エネルギー省)主導の「Genesis Mission」やNSF主導の「NAIRR Pilot」が立ち上がり、欧州連合(EU)ではインフラ・資金・人材を一体化した仮想研究機関「RAISE」が始動するなど、各国がAI駆動型科学(AI for Science)を国家安全保障および産業競争力の源泉として位置づけている1。こうした国際的な競争激化を受け、文部科学省は2026年(令和8年)3月31日に「AI for Scienceの推進に向けた基本的な戦略方針」を策定し、今後5年間を科学研究システム抜本改革の集中期間と位置づけた2。この戦略では、2035年までに世界のTop10%論文のうちAI関連論文数で世界3位を目指すという野心的な目標が掲げられている2。
この国家戦略を具現化するための主要な研究投資枠組みとして、フラッグシップ事業である「ARiSE(AI for Science 革新的研究推進事業)」(1課題最大30億円規模)と並行し、裾野拡大を目的とした「AI for Science萌芽的挑戦研究創出事業(SPReAD)」が新設された1。SPReAD事業は、1課題あたりの直接経費上限を500万円とし、約半年間という極めて短期間で萌芽的・探索的なAI応用研究を機動的に支援するものである7。2回の公募を通じて計1,000件程度の採択を予定しており、AI利活用の初心者から高度な専門家まで、人文学・社会科学を含むあらゆる分野の研究者を対象とした異例の大規模支援となっている7。特に本事業は人件費を補助対象外としており、研究費の使途を計算資源、API利用料、ロボットアーム等の実験自動化設備、データ整備等に限定している点に大きな特徴がある7。
本報告書では、令和8年度に実施された第1回および第2回公募の採択結果をマクロ視点から概観した上で、ユーザーの関心領域である「臨床科学(Clinical Science)」および「生命科学・薬学(Life Science / Pharmacy)」の採択課題をミクロ視点から深掘りする。採択された研究テーマの傾向を解剖することで、現在の学術界において「AIを用いてどのような科学研究が有用とみなされているのか」についてのインサイトを抽出し、今後の科学研究におけるパラダイムシフトの構造と波及効果を明らかにする。
2. SPReAD公募全体のマクロ統計分析と審査の傾向
SPReAD事業の第1回および第2回公募は、日本の学術界においてAI活用への潜在的需要がいかに巨大であったかを浮き彫りにした。公表された統計データを統合すると、研究現場における熾烈な競争と、それに伴う高度な提案の選別プロセスが明確に観察できる。
第1回公募では、15,000件を超える応募が殺到し、採択率2.9%(倍率約35倍)という極めて競争率の高い審査となった10。続く第2回公募においても応募数は17,914件へとさらに増加し、学術界全体のAIに対する強い関心が証明された10。特筆すべきは、学生(修士・博士課程等)からの応募が全体の約16〜18%を占め、実際に167件の研究が採択されている点である10。これは若手研究者層においてAIを自らの研究ツールとして統合しようとする意欲が非常に高いことを示している。
研究領域別の内訳をみると、「生命科学・薬学」および「臨床科学」は、情報科学分野(電気工学・電子工学・情報科学・コンピューターサイエンス)と並んで、応募・採択ともに最大のボリュームゾーンを形成している。
これらの統計とユースケース別の分析(高度データ解析・モデリングや発見・設計支援の採択率が高い傾向10)から、審査において評価される「有用なAI科学研究」の輪郭が浮かび上がる。単に既存のAIモデルを既存のクリーンなデータセットに適用するだけの提案は淘汰され、ドメイン固有の複雑な課題(データ取得の自動化、物理モデルとの統合、暗黙知の抽出など)に対して、AIを実社会や実験環境にどのように統合・適応させるかを具体的に示した提案が高く評価されている。機関別採択数において、第1回公募では筑波大学(27件)が東京大学(25件)を上回りトップに立つなど、研究の質と提案の独創性が機関の規模を超えて評価されるフラットな競争環境が構築されている11。
3. 臨床科学領域におけるAI応用の有用性と展開:データ駆動型医療と暗黙知の形式化
臨床科学領域における合計168件の採択課題を分析すると、医学的知見と高度なデータサイエンスの融合が強力に推進されていることが明らかとなる。これまで「暗黙知(Tacit Knowledge)」として医療従事者の経験や直感に強く依存していた診断プロセス、手技、ケアの実践を、AIを用いて「形式知」へと変換し、客観的かつ定量的な予測モデルを構築する研究群が、有用な科学研究として採択のトレンドを形成している。この領域の展開は、以下の4つの主要なテーマに大別される。
大規模言語モデル(LLM)と自然言語処理(NLP)による非構造化医療データの価値化
医療現場には、電子カルテの自由記述、看護記録、精神科の面接ログ、患者の主観的報告(PRO)など、構造化されていない膨大なテキストや音声データが日々蓄積されている。これらをAIによって解析し、背後にある臨床的意義を抽出・構造化するアプローチが多数採択されている。
たとえば、筑波大学による「生成AIによる精神科初診カルテの根拠文付き構造化抽出ワークフローの概念実証」15 や、東京科学大学の「精神疾患に共通する『認知の歪み』をローカルLLMで定量化する神経言語バイオマーカー基盤の構築」14 は、診断において主観が入りやすい精神科領域の言語情報を、LLMを用いて客観的なバイオマーカーとして再定義する革新的な試みである。また、東海大学が提案する「蓄積された看護研究のAI全文解析による、看護師の看護実践能力の構造化と獲得経緯の可視化」14 のように、経験に基づく実践的ケア技術をテキストマイニングで体系化する研究も、医療技術の教育や伝承の観点から極めて有用である。
さらに、医療データの機密性という本質的な課題に対する技術的アプローチも評価されている。山口大学の「完全オフライン型ローカルLLMによる救急音声解析:未知のコミュニケーション摩擦因子の発見」15 や、湘南工科大学の「医療機器関連インシデントに特化したローカル大規模言語モデルの構築と評価」14 のように、クラウドにデータを送信することなく、オンプレミス環境で高度な言語処理を実現するローカルLLMの活用は、プライバシー保護とデータ活用を両立する臨床実装の最適解として提示されている。
コンピュータビジョンとデジタルツインがもたらす精密医療と動的手術支援
画像診断の領域では、単なる病変の検出(Classification / Segmentation)から、動的なシミュレーションやリスク予測、ひいては外科手術のリアルタイム支援へとAIの役割が拡張している。現実の患者の解剖学的・生理学的特徴を仮想空間上に再現する「デジタルツイン」の概念が、臨床科学において強力なツールとなっている。
徳島大学による「AIによる術中解剖追従・変形モデリング・切離支援を統合した外科用拡張現実シミュレーション基盤の開発」15 は、術中の臓器変形をAIでリアルタイムにモデリングし、AR(拡張現実)を通じて安全な切離ラインを執刀医に提示するものである。また、熊本大学の「術野はなぜ崩壊するのか:理想術野における成立条件の科学的形式化と崩壊構造のAI解明」14 という研究は、手術の「質」や「安全性」という極めて定性的な概念を、画像解析を用いて幾何学的かつ物理的に定量化しようとするアプローチであり、外科学の科学的理解を一段階引き上げる有用な視座を提供している。
加えて、放射線科領域においても、大阪公立大学の「AIを用いた放射線科デジタルツイン基盤構築: レポート完成までのTAT予測定量化」14 や、順天堂大学の「核医学治療における退出時線量個別予測のための多モダリティAIモデル(デジタルツイン基盤)の開発」14 など、治療効果や被曝リスク、さらには病院全体のワークフローまでを事前評価するシミュレーション技術が実社会への実装を見据えた有用な研究として採択されている。
ウェアラブルデバイスと時系列生体信号解析による連続的・非侵襲的な動的予兆検知
従来の医療が「病院での断続的な検査(エピソディックなデータ)」に依存していたのに対し、ウェアラブルセンサーやスマートフォンを活用して、日常生活下で連続的に取得される時系列データから機能低下や疾患の予兆を捉える研究が急増している。
近畿大学が推進する「スマートフォン動画とコンピュータビジョンAIによる運動失調定量評価基盤の構築」14 や、北海道大学の「実臨床歩行動画のAI ready化と事前学習による神経疾患歩行解析AIの精度向上に関する概念実証」15 は、高価なモーションキャプチャ設備を必要とせず、一般的な動画データから疾患特有の運動異常を高精度に検知する技術である。これにより、患者の負担を最小限に抑えた広範なスクリーニングが可能となる。
また、ノイズが極めて多い環境下から微弱な生体信号を分離・抽出する深層学習の応用も高く評価されている。広島市立大学の「高精度時間周波数解析と深層学習による非定常生体信号の異常検知AIモデル開発」15 や、新潟大学の「AIによる咀嚼時fNIRS脳活動の解釈可能な自動判定基盤の構築」14 は、複雑な生体時系列データを解析し、認知機能や自律神経の微細な変動を可視化することで、発症前の早期介入(未病段階での治療)を実現するための重要なマイルストーンとなる。
マルチオミクスとリアルワールドデータ(RWD)の統合による疾患の再定義
電子カルテデータ、レセプトデータ、ゲノム、メタボローム、マイクロバイオーム(腸内細菌叢など)といった多次元・多階層のデータを統合し、単一のバイオマーカーでは捉えきれない複雑な病態をネットワークとしてモデル化するアプローチがトレンドである。
名古屋大学が提案する「大規模病院群電子カルテデータ統合による疾患Foundation Model構築と難病予後予測」14 は、特定のタスクに依存しない医療特化型の基盤モデル(Foundation Model)を構築し、多様な難病の予後予測に転移学習させるというスケールの大きな構想である。また、東京科学大学の「説明可能AIを活用したマイクロバイオーム統合解析による口腔潜在的悪性疾患の悪性化メカニズム解明と予測基盤の構築」14 や、山口大学の「犬慢性腸症における加水分解食応答予測のための臨床・腸内細菌叢統合AI予測モデル基盤の構築」14 に見られるように、宿主の臨床情報とマイクロバイオームの相互作用をAIで統合解析する研究は、疾患の層別化と超個別化医療(プレシジョン・メディシン)を推進する上で不可欠な科学的基盤とみなされている。
4. 生命科学・薬学領域におけるAI応用の有用性と展開:自律型実験と分子空間の超越
生命科学・薬学領域における合計240件の採択課題を概観すると、AIが単なる「取得済みデータの事後解析ツール」という受動的な役割から、実験の計画・実行・評価のループを自律的に主導する「AIエージェント(共同研究者・Copilot)」へとその本質的な役割を劇的に進化させていることがわかる。この領域において有用性が認められた最先端のAI応用は、以下の4つのパラダイムに分類される。
タンパク質設計と創薬における生成AIと物理シミュレーションのハイブリッド化
AlphaFoldに代表される構造予測AIの登場により、アミノ酸配列から立体構造を予測する「順問題」は大きく前進した。現在SPReADで採択されている研究の最前線は、望ましい機能や結合親和性を指定して、それに合致する分子やタンパク質をゼロから生成する「逆問題(De novo design)」の解決へと完全にシフトしている。
早稲田大学の「AIによる相分離タンパク質標的protein binder設計原理の確立と遺伝子治療基盤の構築」15 や、愛知医科大学の「de novo結合タンパク質のAI設計を利用した遺伝子発現操作法の開発」14 は、進化の過程で自然界が探索しきれなかった広大な配列空間から、最適化された人工分子を生成AIによって探索するアプローチである。創薬の初期フェーズにおけるスクリーニングのボトルネックを打破し、医薬品開発のタイムラインを劇的に圧縮する可能性を秘めている。
同時に、AIによる高速な構造サンプリングと、厳密な物理法則に基づく分子動力学(MD)シミュレーションを組み合わせるハイブリッド手法が主流となっている。東京科学大学の「構造サンプリングとMDシミュレーションの融合による、TDP-43タンパク質凝集の動的構造基盤の解明」14 や、九州医療科学大学の「脂質二重層を考慮した分子動力学と機械学習によるOATP1B1阻害強度予測モデルの構築」14 のように、AIの推論速度と物理シミュレーションの精度(Grounded in Physics)を掛け合わせることで、生体内環境における動的かつ複雑な相互作用を高精度に予測する手法が、極めて有用な科学的アプローチとして確立されている。
ゲノミクス・空間オミクスによる生命現象のデジタルツイン化と仮想摂動
DNAやRNAの一次元的な配列情報にとどまらず、細胞内の空間的配置、エピジェネティクス状態、さらには翻訳の動態といった多次元的な情報を統合し、細胞や組織の高解像度なデジタルツインを構築する研究が相次いでいる。
東京大学による「日本人集団におけるRNA editingとedQTLの解明および深層学習による解析基盤の構築」15 や、「アイソフォーム解像度で俯瞰する細胞内局所翻訳の全貌」15 は、従来のトランスクリプトーム解析では見落とされがちであった複雑な転写後修飾や翻訳の時空間ダイナミクスを、AIのパターン認識能力を用いて解読する試みである。
特筆すべきは、構築されたデジタルツイン上で仮想的な実験を行う「Virtual Gene Perturbation(仮想遺伝子摂動)」の概念である。名古屋大学の「空間トランスクリプトームとAIによるアミロイドβ病理形成過程の予測と再構築」15 や、「トランスポソン-フリーのデジタルツイン・ヒトゲノム構築による未知の機能性DNAエレメントの探索」15 が示すように、コンピュータ上の仮想ゲノムや仮想細胞に対してAIが数百万通りの摂動(ノックアウトや過剰発現)シミュレーションを行い、重要な表現型変化を引き起こす遺伝子ネットワークを特定する。これにより、時間とコストのかかるウェットラボでの生物実験を、AIによる事前スクリーニングで極限まで効率化することが可能になる。
ハイスループット画像解析とフェノミクス(表現型網羅的解析)の深化
顕微鏡画像や動物の行動動画など、これまで研究者の視覚的評価と手作業によるアノテーションに頼っていた領域において、AIによるハイスループットかつバイアスフリーな解析基盤の構築が進んでいる。
量子科学技術研究開発機構の「線虫10万個体のストレス応答動画のライブラリ化と活用基盤の形成」15 や、東京科学大学の「AI駆動型空間解析によるペルオキシソーム恒常性破綻の予兆検知」15 は、人間の認知限界を超えるスケールと微細さで細胞内オルガネラの動態や大規模な個体群の表現型(フェノタイプ)を抽出する技術である。さらに、東北大学の「VR環境下におけるニホンザルの行動・生理指標のマルチモーダルAI解析による自己身体認識過程の推定」15 に見られるように、複雑な動物の行動と神経活動を同期させてモデル化する研究は、脳科学・行動学における「データ駆動型発見」を加速させる中核技術として位置づけられている。
クローズドループ(閉ループ)自律実験とAgentic AIによる研究プロセスの自動化
生命科学領域において最も革新的であり、かつSPReADの制度趣旨(計算資源やロボティクスへの投資推進)に強く合致しているのが、実験の自動化とAI意思決定を統合した「クローズドループ(DBTL: Design-Build-Test-Learn)サイクル」の実現である。
東京大学が推進する「自律型Agentic AIを用いた実験自動化による生体脳へのロバストな情報書き込み手法の探索」14 や、理化学研究所の「自律的cryo-EM試料作成装置の開発」15、筑波大学の「自然言語で操作できる協働ロボット制御アプリ開発による分子生物学実験自動化の民主化」15 は、LLM等のAIエージェントが実験計画を立案し、ロボットシステムを制御してウェットラボで実験を実行し、得られた結果を自ら解析して次の実験条件を最適化するという完全な自動化ループを目指している。
また、実験手技の自動化は、単なる省力化を超えた意義を持つ。量子科学技術研究開発機構の「『熟練職人芸』による電気生理実験技術を、AIにより再現・代替する」15 や、筑波大学の「フィジカルAIによる核酸抽出精製の自律自動化—視覚認識と模倣学習に基づく適応的湿式操作基盤の構築」14 のように、熟練研究者の指先の感覚や状況判断といった「暗黙的・属人的なスキル」をロボットとビジョンAIによってデジタル化・標準化するアプローチは、実験の再現性危機(Reproducibility Crisis)を克服し、科学的知見の堅牢性を担保する上で極めて有用な科学的挑戦である。
5. 第二次・第三次波及効果:採択課題から読み解くAI for Scienceのメタ・トレンド
臨床科学および生命科学の具体的な採択課題群を俯瞰すると、特定のデータ解析手法の向上という直接的な成果(一次効果)を超えて、科学研究の構造自体を不可逆的に変容させる高次のインサイト(第二次・第三次波及効果)が見えてくる。文部科学省がSPReAD事業を通して社会実装しようとしている「AI for Science」の真の有用性は、以下のメタ・トレンドに集約される。
5.1. 「暗黙知(Tacit Knowledge)」の形式化による知識移転の限界突破
科学研究や臨床現場の最大のボトルネックは、極めて高度な専門性が個人の身体や脳内に「暗黙知」として固定化され、他者への共有やスケーリングが困難である点にあった。しかし、臨床科学における「外科医の術野展開の構造的理解」14 や、生命科学における「細胞培養時の微小な形態変化の感知」14、「パッチクランプなどの職人芸的実験手技」15 が、マルチモーダルAIとロボティクスによって定量的なデータモデル(形式知)へと変換されている。
このパラダイムシフトがもたらす第三次波及効果は、技術承継のコスト崩壊である。かつては数年から数十年の徒弟制度や現地での直接指導を要した高度な手技や判断基準が、学習済みモデルというアセットとして、世界中のどの研究機関・病院へも瞬時にダウンロード可能となる。これは、地方の小規模な研究室やリソースの乏しい環境であっても、トップ層と同等の「実験・診断の質」を再現できることを意味し、科学全体の民主化と底上げに直結する。
5.2. AIエージェント化がもたらす研究者の「役割(Role)」の再定義
従来のバイオインフォマティクスや医療統計において、研究者の役割は「仮説を立案する主体」であり、AIは「検証作業を高速化する客体(ツール)」であった。しかし、「Agentic AI」や「閉ループ自律実験(Closed-loop DBTL)」14 の採択課題群が示すのは、この主客の逆転、あるいは融合である。
AIエージェントが過去の膨大な論文やマルチオミクスデータから自律的に仮説空間を探索し、最適化アルゴリズム(ベイズ最適化など)に従って実験条件を決定し、ロボットがそれを実行する時代において、人間の研究者に求められる能力は根本的に変化する。研究者はもはやピペットを握る作業者やデータクリーニングの担当者ではなく、AIエージェント群が探索すべき「解空間(目的関数)」を正しく設計し、AIが生成した非直感的な結果に対して「物理的・生物学的意味づけ(Grounding)」を与える「ディレクター」へと変容する。この役割の移行を早期に実現した研究チームが、今後の科学的ブレイクスルーを独占することになる。
5.3. 制度的制約が強制する研究室エコノミクスのクラウド・自動化シフト
SPReAD事業の特異な制度設計(1課題最大500万円という規模感と、人件費への支出不可という制約)7 は、日本の研究現場に強力な行動変容を促している。人件費が使えない以上、研究者はこの資金を用いてポスドクや学生の労働力(人海戦術)を買い増すことができない。結果として、予算は必然的に「クラウドGPUの計算資源」「商用LLMのAPI利用料」「小規模ロボットアームや自動分注機」へと全額投下されることになる7。
この制約は、日本の学術界にはびこる「労働集約型の実験パラダイム」からの脱却を強制する見事な政策的バイアスとして機能している。研究室の属人的なマンパワーに依存するのではなく、SaaS化されたAIインフラや自動化ハードウェアへの資本投下を促すことで、研究室の生産性は労働力ではなく「利用可能な計算資源とAIモデルの質」に比例するようになる。この「研究のレバレッジ化」こそが、AI for Science先進国としての地位確立を目指す国家戦略の本丸であると言える。
6. 結論:次世代の科学研究エコシステムの確立に向けて
令和8年度の「AI for Science萌芽的挑戦研究創出事業(SPReAD)」における臨床科学ならびに生命科学・薬学領域の採択課題群を精査した結果、AIが単なる補助的な解析ツールを越え、科学的発見の「駆動エンジン」そのものとして機能し始めている実態が明確に確認された。
臨床科学領域では、LLMを活用した非構造化医療データの価値化、コンピュータビジョンによる手術と放射線治療の動的なデジタルツイン構築、そしてマルチモーダルデータを用いた未病・予後予測基盤の確立が、属人的な医療を客観的・予測的な超個別化医療へと進化させている。一方、生命科学・薬学領域では、生成AIによるDe novo分子設計、空間オミクスによる細胞レベルの仮想摂動シミュレーション、そしてロボティクスと統合された自律的なクローズドループ実験が、新薬開発や生命現象の解明速度を従来の限界を超えて加速させている。
総じて、本公募において「有用である」と評価され、採択を勝ち取ったAI科学研究とは、既存のクリーンなデータに既製のアルゴリズムを適用するだけの研究ではない。それは、「物理空間(ウェットラボや臨床現場)と情報空間(ドライ解析やデジタルツイン)をシームレスに結合させ、熟練者の暗黙知を形式化し、実験と検証のサイクルをAI主導で自律的に回転させることで、人間の認知限界を超えた未知の設計空間を探索するパラダイム」を提示した研究である。
今後、SPReAD事業等を通じて日本全国の多様な研究室で育成された萌芽的かつ野心的なアプローチが、ARiSEのようなトップダウン型の巨大インフラ・フラッグシップ事業2 へと接続されることで、我が国の科学研究は「AIを単に使う」段階から「AIと共に思考し、AIと共に新たな科学の法則を創出する」段階へと、不可逆的な飛躍を遂げるであろう。
引用文献
AI for Scienceの研究費を眺めて、科学の競争軸が変わり始めていると思った|Atsushi Miyashita, https://note.com/amiyashita/n/n3b8e84d777d8
AI for Science 国別比較:米・EU・日本の政策——Genesis MissionからARiSEまで, https://portal.science-aid.com/blog/ai-for-science-country-comparison-us-eu-japan
AI for Scienceの推進に向けた基本的な戦略方針(具体的目標例), https://www.mext.go.jp/content/20260310-mxt_jyohoka01-000048068_3.pdf
文部科学省、「AI for Scienceの推進に向けた基本的な戦略方針」を策定, https://current.ndl.go.jp/car/277076
JST AI for Science革新的研究推進事業(ARiSE), https://research-miyacology.tmu.ac.jp/fundingdb/28771/
「AI for Scienceによる科学研究革新プログラム」 特設ページ - 新潟大学URA, https://www.ura.niigata-u.ac.jp/aiforscience/
SPReAD 1000 - 研究の可能性を、AIで解き放つ - 文部科学省, https://www.mext.go.jp/aifors_spread/
【最大500万円補助】文科省「SPReAD」公募開始!AI研究を最速で立ち上げる設備一式のご提案, https://mfrdx.applied-g.com/news/post-8824/
【議事録詳報・前編】AI for Science始動 1万5千件超の応募が示す研究現場の熱量, https://www.sentankyo.jp/articles/cfb2d6c1-8600-461c-8ace-bcce261efe8a
SPReAD: AI for Science 第1回採択課題 | NES株式会社, https://www.24med365.net/2026/06/spread-ai-for-science-r8-01/
SPReAD 第1回公募 採択結果一覧・可視化(令和8年度 AI for Science)| UMT株式会社, https://spread-viz.umt.jp/
AI for Science(spread1000)採択結果・第2回はいつ|SPReAD採択率2.9%・倍率約35倍, https://grant-search.com/guide/ai-for-science/
AI for Science萌芽的挑戦研究創出事業(SPReAD) 第2回公募の応募状況について, https://www.mext.go.jp/content/20260807-mxt_jyohoka01-000051488_001.pdf
令和8年度 AI for Scienceによる科学研究革新プログラムAI for Science萌芽的挑戦研究創出事業(SPReAD) 第2回公募採択課題一覧.pdf
令和8年度 AI for Scienceによる科学研究革新プログラムAI for Science萌芽的挑戦研究創出事業(SPReAD) 第1回公募採択課題一覧.pdf
文部科学省「AI for Science萌芽的挑戦研究創出事業(SPReAD)」に採択されました。 | 徳島大学 胸部・内分泌・腫瘍外科, https://www.tksbizan.com/news/medical-information/6622/
【採択のお知らせ】令和8年度「AI for Science萌芽的挑戦研究創出事業(SPReAD)」第2回公募に当教室から2件が採択されました - 大阪公立大学, https://www.omu.ac.jp/med/ai/info/events/entry-118630.html