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未来に絶望しないためには過去を捨てる

まだ考えがまとまっていないけど、いきがい感をなくすということはつまり未来において希望が持てないことではないか。その原因は、過去に固執しているからではないかと思う。例えば過去の栄光を引き合いに出して未来は必ずよくならない、もしくは過去の失敗を引き合いに出して未来は必ず暗いという結論になると、絶望してしまう気がする。 〇〇をするというときに、過去がうまく使えるのであれば使って、使えないのであれば捨てればいいんじゃないだろうか。

僕は生きてても良いと考えるには

「僕はこの世に生きるに値する」という感覚が崩れ去る出来事が何度もある。僕が死んだときに誰一人として困る人はいないのではないか、もっというと誰も気づかないのではないか。 それは言い過ぎかもしれないけれども、今の状況を考えると僕がいなくて本当に困る人っていないと思う。考えれば考えるほどそう思う。 それでも、僕は生きるに値すると考えるにはどうしたらいいか。それはもし全人類が僕を見捨てても神だけは僕を見捨てないという気持ち、もしくは誰とも繋がっていないと思っていても、大地を通じて全ての人類と繋がっているという思うしかないんじゃないかな。

寝ちゃったよね

今日やらなくてはならない仕事があって、昨日の夜家でやろうと思ってた。とりあえず飯食って風呂に入って、ベッドに横になりながらパソコンで作業してようとしてたらいつのまにか寝ちゃったよ。 ってか、自分でもわかってることなんだけどね。いつになったらこういう自分から変われるんだろうか。

髪を切って考えた

髪を切りに行った。スウェーデンに一年半以上住んでいるが髪を切ったのはこれで四回目ぐらいだ。もともと散髪屋が好きでないのと、海外と言う事もあってなかなか躊躇してしまう。だからいつも髪を後ろで結べるぐらい長くなってようやく行くことを決意する。 今日は何故か体調が優れていなかったのだが、散髪屋で順番待ちのときに少し居眠りをすると、ちょっと元気になった。髪を切っているとなぜさっきまで落ち込んでいたんだろうかと不思議なくらい気持ちが晴れやかになった。 落ち込んだ心を建て直すには、つべこべ言わずにやりべきことをやることだ。僕は本当にズボラな性格でやるべきことを全くやらずにこれまで過ごしてきた。このブログで書けないことも山ほどあるが、書けることで言うと風呂場の電気が消えたままで買い替えていなかったり。そういう小さいことでもいいから前進しているという感覚を得られる行動が必要なんだろうな。

旅行僕の持ち物 一泊もしない場合

[ ] パスポート [ ] ID [ ] お金 [ ] 枕 [ ] Tablet [ ] 携帯電話 [ ] 変換プラグ [ ] カメラバッテリー [ ] カメラ [ ] カメラ レンズ [ ] ケーブル アイパッド用 [ ] ケーブル 携帯電話用 [ ] 歯ブラシ 歯磨き粉

Kindle unlimitedを契約した。

タイトル通り、kindle unlimitedを契約した。これは月1000円でアマゾンが指定した本が読み放題になるシステムである。 僕は以前にも契約していたが解約してしまった。理由はツイッターのつぶやきを寄せ集めたような、見た目だけ豪華で金をもらっても読むに値しない本ばかりだったから。 しかし、もう一度契約した理由はほんの種類が増えたことと、本を買おうとするときにそれがkindle Unlimitedで読めるというのがわかると買うのがもったいなくて買えなくなるという現象が起き出したから。 ただし、本を探すときにはkindle Unlimitedの中から探さないようにした。それが読み放題になってればすぐ借りればいいし、なってなければ買えばいい。本当は紙の本も自由に読みたいけど、海外にいるのでそれもなかなかできない。英語の本が読めれば本の数は劇的に増えるけど、疲れて読む気にもなれない。

生きがいを感じる上で家族は大切

"生きがいについて"という本を読んでいる。まだ読んでいる途中だけど、人間は他者から必要とされていると感じる際に生きがいを感じるのだそうだ。 その場合の"自分を必要としている他者"の中で最もわかりやすい例は家族である。自分が働くことで家族に家や食事を提供できる、もしくは小さい子が生きていけるという感覚は大きな生きがいになる。家族がいれば"自分は必要とされていない"と考えることはないから。ある程度困難なことも乗り越えていける。 逆に家族がいない場合、限界まで落ちてしまうことがある。家族がいれば幸せであるというのが真であっても、家族がいないと不幸であるというのを真にするべきではない。そのためにはどうしたらいいんだろう。

アーランダファッキュー

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土日を使ってアイルランドのダブリンに行く予定だった。土曜の午後四時発の飛行機に乗るはずがいつまで経っても飛行機が来る気配がない。出発が16:30になり:45になり17:00になり17:30になり。 そしてアナウンスが入り、飛行機がキャンセルになったらしい。どうやら空港のシステムに問題があったそうで、この日の殆どの飛行機がキャンセルもしくは大幅な遅れになった。一応先進国の一番主要な国際空港無のにこんなんでいいのかアーランダ空港。 とりあえず、インフォメーションに行けというので行く。しかしもうそこは長蛇の列。そりゃ殆どの飛行機がキャンセルしたんだからね。そんな事態なのにカウンターは2つしか空いてない。お前ら従業員全員連れてきて対応しろや。 結局僕の番が来るまで3時間待ったよ。もうこのとき午後八時。 ダブリン行きは次の日の7:00発9:00着があるのでそれに変えることに。14:00にはダブリンを出ないといけないからまさかのダブリン日帰り旅行に。 チケットをもらってチェックインすることに。ってかチケットくれるときにチェックインもしとけや! まァチェックインカウンターも長蛇の列ですよね。当然ですよね。この間、係の人が来てカードを配りこれでホテルに泊まれると行ってくれた。ってか、このカードなんでチケット発行するときにくれなかったの? もらい損ねた人もいっぱいいると思うんだけど。 さて次。  ホテルですよ。もちろん並びますよ。当然ですよね。写真がホテル予約の列です。 ってかさ、カウンター一つってなくない?オフの従業員も叩き起こして全員で対応しろや。なんか、椅子持ってきてくれたけどそういう優しさより早くホテル予約しろや。何一人に5分も十分もかかっとんねん。シャンプーの好みでも聞いとんのか。 ようやく夜11時になり、僕のばんになる。すると もうホテルが探せないのでそちらで探してくださいだって。なら僕はなんのために並んでたのさ。腹立つよ。 結局午後2時から空港にいて次の日の朝7時まで、めちゃくちゃ固くて冷たいフラットな椅子にっ横になってましたよ。他にもたくさん人がいたのが唯一の救いです。 スウェーデンは確かにIT化もキャッシュレス化も進んでるけど、効率的では全くないよ。日本のほうが遥かに効率的だよ。 でもトラブルがあっても文句も言わずに静かに待つスウェーデン人には感心するけど、なんか怖

100分DE名著 『生きがいについて』 その1

生きがいとは何かを考えていたときなので、今月の100分で名著は自分にぴったりだった。 読んだものをまとめていく。 生きがいの定義 生きがいとは人生になくてはならないもの。主観的なものであり客観的に他人が定義することが出来ない。生きがいは何かと 説明する必要はなく 、腹の底から湧き上がった喜びこそが生きがいであるといえる。 生きがいを考える導きとなる4つの問い 1.自分の存在は、何かまたは誰かのために必要であるか。 2. 自分固有 の生きていく目標は何か。あるとすればそれに忠実に生きているか。 3.人生あるいはその他から判断して。自分は生きている資格はあるか。 4.一般に人生というものは生きるのに値するものであるか。 自分固有ということは、他人に認められる必要はないということ。 人間が生きがいを感じる時 、人間が最も生きがいを感じるのは自分がしたいと思うことをと義務とが一致した時だと思われる。自己の存在目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確立しその目標に向かって全力を注いで歩いている人、言い換えれば 使命感 に生きる人ではないか。 疑問 生きがいを感じる際に他人は必要なのか? ここからは僕の疑問。アドラー心理学では、悩みは100%他者との関係から生じるものであるが、他者がいないと喜びを感じることが出来ないと言っていた。今回もよくわからないのは、生きがいとは他人に認められる必要はないと言っておきながら、問の部分で他人のために必要であるかと聞いている。 例として、自宅で熱帯魚を飼うのが自分の生きがいだと感じる人を挙げる。熱帯魚を飼うことで心から喜びを感じる際にはそれが生きがいであると定義できる。しかしそれは全く他人にとっては必要ではない。その場合には本当に生きがいと言えるのかどうか、他人を助けない場合には生きがいと呼べるのかどうかが僕にはよくわからない。

線をつなげる その9: ついに線がつながる

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次の日、ミラノを朝5時半発の電車に乗りフィレンツェに向かう。イタリアの電車は便数が豊富な上に価格が安い。 ミラノを出発して約二時間して、フィレンツェに到着した。未だ早朝なため、人がそんなに歩いていない。 フィレンツェは、昼までの滞在である。まずはウフィツィ美術館に向かった。人気な美術館のため、予約しないと入れないと言われていたので開館の30分前に並んでチケットを買うとあっさり入ることが出来た。 朝は人がいない。 ボッティチェリのビーナスの誕生。 ここはレオナルド・ダ・ヴィンチの部屋。右側が『受胎告知』。 僕はこの受胎告知が日本の東京国立博物館に来た際、見に行った。その際は本当に大人気で長い列を待って遠くからこの絵を見た記憶がある。しかしこの博物館では、誰もいなかった。柵は一応あるが、触れるぐらい近くで見ることが出来る(実際はガラスがあるので絶対にさわれない)。 美術館を見て、出口を探すが中々外に出られない。係員に聞くと、何やらイタリア語で話しかけてくるので適当に相槌をうつ。すると、その係員は僕が美術館に入りたいと思っていたらしく、入り口まで連れてってくれた。親切さゆえに違うとも言うことが出来ず、結局もう一度美術館に入ることになった。そこからまた出口を探すが、出口に行くにはもう一度その人の前を通らないといけない。その人に見つからないように、ひっそりと出口を探し外に出た。 イタリア人は基本的にみんな親切だが、こちらが英語で話しかけても容赦なくイタリア語で話してくる。しかし大抵の場合はなんとなくあちらが言っていることがわかる。今回の場合は別だけど。 未だ時間があるのでフィレンツェの大聖堂に行く。中には入らない。 食事に、野菜スープを食べた。 そしてバスで、フィレンツェからローマに向かう。チューリッヒからミラノに行く際、バスが2時間以上遅れたので、遅延が心配だった。飛行機を予約しているため、遅れてしまっては困る。しかし、その心配は無用で時間ぴったりにバスは出発しローマに向かう。ローマに向かうとそのまま空港でストックホルムへ。今回の旅はこれにて終了。 僕はヨーロッパの国を陸路で周るという意味の分からないことを今している。去年の夏にローマからブカレストまで行ったが、今回の旅でストックホルムからブカレストまでの線がつ