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悩みは決して取り除けない

「人は他者とかかわらない限り生きていけない」 「悩みのすべての原因は人間関係である」 もしこの二つが真理であれば、人間は悩みを取り除くことができないように思う。悩みを除くためには、人間関係を取り除く必要があり、そしたら人間は生きていけない。

仕事1つですべてを満たす必要はない

仕事においては次の事が重要になる。 1.お金を稼ぐ仕事 2.自分がやりたい仕事 3.人の役に立つ仕事 この3つが満たされる仕事が見つかればいいのだが、それは中々難しい。でも、もしその3つを、1つの仕事で満たさずにそれぞれ3つの仕事で満たせれるのなら、それは難しくないのかもしれない。 クレイジージャーニーで、戦場カメラマンがでていたが、その人の戦場カメラマンとしての収入は完全に赤字で、お金はトラック運転手として稼いでいるらしい。戦場カメラマンや冒険家などは、なりたくても稼げなくてなれないと思ってる人が多いが、それは一つの仕事で全てを満たそうとしているからだろう。 僕自身、お金を稼ぐと妥協して仕事を選ぶことは今までできなかった。一度の人生だし、その人生を無駄にしたくなかった。でも、別に自分の好きなことを続けていけば、自分の アイデンティティ は失われないのだなと思ってきた。そう考えると、ちょっと気持ちが楽になった。

金曜日の夜は

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ストックホルム はだいぶ暖かくなってきました。だいたい10度ぐらい。 金曜の夜はお寿司屋でテイクアウトして、公園で食べました。夜と言っても夜八時ぐらいまで明るいです。

近い将来残るお店ってなんだろう

電気屋に、カメラにつけるクリップを買いに行ったんだけど、マイナーな商品なので売ってなかった。 スウェーデン は人口が少ないからやっぱり東京に比べると物は圧倒的に少ない。そのかわりネットだとすぐに見つかるんだけど。 近い将来、ネットショッピングでできるものは全てネットショッピングに置き換わっていく気がする。食べ物もスーパーで買うと、スーパーに運ぶ時間+スーパーに置いておく時間があるわけで、ネットショッピングするとスーパーに置く時間がないので新鮮なものが手に入る。一軒一軒に運ぶ手間が増えるけど、集積場みたいなのが多くなれば、そこに行けばいい。 そうなると、将来のお店ってレストランぐらいしか残らないんじゃないかな?レストランは雰囲気も楽しむところだからね。あと、人との交流出来る場所も必要な気がする。例えば ボードゲーム カフェとか。

落ち込んだときは体を動かす。

休みで孤独感が増し、気持ちが落ち込んでいた。外に出て散歩するとだいぶマシになった気がする。僕は(おそらく人間全体は)感がれば考えるほど、下の方に沈んでいく傾向にあるらしい。カウンセラーの友人に聞いたら、うつ病の人はどんなことでも、無理やりにでも悪い方向に持っていく思考になっているらしい。 恐怖感というのは生物が生きていく中で大切なことなんだけど、恐怖感のせいで生活に支障をきたし、さらに命まで落としてしまうと本末転倒である。他の動物がうつ病にならないのは、何か行動を起こさないと死んでしまうからじゃないかな。人間の場合、特に家族がいれば引きこもっても死ぬことはほとんどない。そのせいで元に戻れなくなるくらい落ち込んでしまうんじゃないかと思う。 僕の頭では考えたところで何も変わらないから、キッチンの掃除でもいいから何か行動をするべきなんだ。

恐怖感を紛らわすために

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現在襲われている恐怖感や孤独感をどうにか取り除けないかと、椎名誠の本を買った。僕は作家の中で彼が1番好きで毎週のように図書館で借りていた。彼は200冊以上本を出していて、古い本も面白く安いのだが新刊を買ったのは初めて。千六百円はちょっと高い気がする。 彼自身、僕が今襲われてるような恐怖感以上のものに襲われていて、長い間不眠症に悩まされている。彼だけでなく、辛くなるのはほとんどの人が体験する。さらに、他人の辛さを感じることはできない。だからいかに自分が不幸かを人に伝えるのはやってはいけない行為である。でも、やっぱりそういう話を聞いてくれる人がいるのといないのではだいぶ気持ちが違うよなぁ。 できれば僕の中の椎名誠みたいに、誰かの精神安定剤となるような存在に僕はなりたいな。

孤独と恐怖

最近、酷い孤独と恐怖に襲われる。 例えば夜中の二時頃に恐怖によって目をさます。周りを見ても静かな暗い部屋しか無い。 こういう時に誰か隣に寝ていてくれたら、せめて同じ家に誰かいたら、と思う。人は1人では生きていけないとよく言うけれど、そのとおりですね。

居心地がよくなったら終わり

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春分の日をすぎ、サマータイムになって確実に日が長くなってきた。ついこの間までは午後4時には真っ暗になっていたにもかかわらず、現在は午後7時でもまだ明るい。 気温は未だ東京の真冬と同じぐらいの気温だが、今を春と言わないと、夏が来ないまま秋を迎えてしまうことになる可能性があるので、無理やりにも春と断定してしまわないといけない。 スウェーデンで春を迎えるのはこれが二回目。この環境に慣れてきたと感じると同時に、自分に嫌気がさしている。スウェーデンは(実は日本も)、僕にとってはOne of themの一つである。今の状況を特別視するわけではなく、僕の人生の通過点のうちのひとつにすぎない。それなのにこの状況が居心地よく、できればこのまま安定したいと感じるのは、よくない。僕は藍を使って、誰よりも青い青を作るのではなく、様々な色を混ぜて今までにこの世になかった色を作りたい。 しかしそのためには、孤独でなくてはならない。自分に相当の能力が無くてはならない。 安定したいという悪魔と変化したいという悪魔の戦い。どちらが正義なのかはわからない。

味気ある生活を

色々便利なものが出てきて、時短されるんだけど楽しいかどうかはまた別なんだなと最近思っている。ヒトはモノそのものに対して価値を見出すのではなく、そのモノを使った体験に価値を見出すからだろう。 例えばコーヒーを作る場合。 ドルチェグストのカプセルをはめて、ボタンを一つ押せばコーヒーができる。だけども、コーヒーを飲むという行為は、豆を挽き、お湯を沸かしてぽたぽたと落ちるコーヒーのしずくを見ることを含めてコーヒーを飲むということだから、面倒な作業を省いてはいけない気がする。 味気ないという言葉があるけど、その意味でいう”味気”は結構大事なんだろう。 ただ、ある行為に他人が入ると状況は変わる。一番よい例は仕事で、いくら手書きが好きだからと言ってパソコンを使わずに文書を作る行為は許されない。だからこそ、自分だけで楽しめるもの、これを趣味と呼ぶのだろうか、は自分だけの価値観で固めたいですよね。

国籍関係なく、男は物を捨てられない生き物である

職場で壮大な大掃除があった。僕の所属しているのは研究所で、大量の化学物質があるのだけど、それを1つ残らずバーコーディングしていかなくてはならなくなった。 そこで1日かけて大掃除をしていたのだが、当然のごとく使用期限が切れたものやわけのわからないものが大量に出てくる。そういうものは捨てなければならないのだが、どうしても捨てられないやつがいて、結局冷蔵庫に戻すことになる。こういうのは国籍関係なく、捨てられない人は捨てられないのですね。 僕自身も大学を卒業するまでは全く物が捨てられなかった。東京に引っ越すときも実家で使っていたボロボロのソファをわざわざ運んだりしていた。買った方が安いにも関わらず。 ものに対する価値観が急に変わったのは大学を卒業して、引っ越ししなくてはならない時。その時に全く金がなくて荷物を運ぶことができなかった。その時に本を集めていたんだけど、一生懸命集めていた本をブックオフで売ったら、たった一万円にしかならなくて、僕はこんな価値の無いものを集めていたのかと落ち込んでしまった。その時からなるべく物を持たない暮らしをしようと思っているのです。 物を捨てられない人は、物を持っていることでコストを払っているということを知るべきだ。まず、物を置いている空間の家賃を払っている。さらに、物がたくさんあると探すのも時間がかかる。考えもシンプルにならない。 物が捨てられない人の100%は「何かに使えるかもしれない」という。しかし、現時点で得体の知れない物が、未来になって得体の知れるものになる可能性はない。更に得体のしれない可能性はあるけど。 ただ、物を捨てられる人と、片付けられない人はイコールではない。物を捨てられないけど片付けられる人はコレクターといい、両方できない人はゴミ屋敷まっしぐらですね。僕は捨てられるけど片付けは出来ない人かも。

日本国籍という既得権を持っている以上、何らかの責任はある気がする

日本のパスポートが、180カ国でビザ免除となりシンガポールと並び世界トップになったそう。 日本のパスポートは世界最強、180カ国のビザ免除 海外に渡航する側としては、ビザがないことに越したことないのでいいことですね。 先進国では似たり寄ったりの数字なんだけど、日本の隣国の中国とかではビザ免除はたった64カ国と、かなり違います。実際に同僚や友達に中国人がたくさんいますが、学会とかで海外に行く時に、ほとんどの人はビザがいらないのに中国人の人たちはわざわざビザを取らなくてはならず、かなりめんどくさそうです。 国籍というのは別に、自分の実力で取ったものではなく、たまたま日本に生まれるという偶然によって得られる既得権なので、それなりの責任はあるような気がします。強い既得権を持っている人は弱い既得権(っていうのか?)を持っている人にたいし、支援する必要があると思います。ただ、それをどうやって何をすればいいのか、僕には未だわかりません。
結局孤独感というのは どこか行ったり 何かを買ったりしても 特に なくなることはない 孤独感をなくす ためには日々 忠実に 生きていくことが大切なのだと思う

孤独感を取り除くには

最近孤独感がひどい。職場にいる時もそうだけど、特に仕事から帰って家にいる時が孤独感を強く感じる。家に漂う沈黙が耐えられない。かと言って音楽も無理。誰かが喋っていてほしい。Youtubeで動画を探すが良い動画が見つからない。「水曜どうでしょう」みたいにかしこまってみる必要がなく、できれば5時間ぐらいあって毎日配信するような動画があれば1番いいのだけど、さすがにそういうのはないか。日本のテレビが恋しい。 孤独を感じるのは、環境のせいではなく自分の気持ち次第だというのはわかっている。たとえ草原の真ん中に住んでいたとしても充実した生活は送れるし、東京のど真ん中に住んでも孤独を感じる人はいる。 では、孤独を感じる人と感じない人の違いはなんだろうか。あるいは孤独を取り除く方法はどういうものがあるのだろうか。自由=孤独なのであれば、自分を何かで拘束していれば孤独感は感じなくなるのだろうか。 とにかく、何もしないことは孤独感を取り除くことはできないことはわかっている。だからとにかく今はあれこれ考えず、やりたいことはやり、買いたいものは買う、食べたいものは食べるといった行動をしていこう。
なんか、最近余裕が無いな。焦っても仕方ないんだけど。

忙しければ青春しないのではないか

先週担当した講義が、まだ尾を引いていて、今週は結構切羽詰まっている。 講義は終わったのだが、その後のAssignmentがあって、その評価をしなければいけない。Assignmentというのは、要するに宿題。Homeworkというのは基本的には評価されることのない宿題であり、Assignmentというのは評価のされる宿題だということらしい。 学生が40人いて、僕は講義を二個担当したので、40x2=80の宿題を見なければいけない。実はAssignmentは他の人が考えたもの(数年前の使い回し)で、これがかなりの悪文でどうやって答えるのかわからない。そんななか、一生懸命学生は解いて提出してくれたので、こちらも一つ一つコメントしていかないといけない。果てしなくめんどくさい作業である。 最近、人生とは何かというのを常に考えている。それは僕が暇だからというのがあるのかもしれない。姜尚中さんの『悩む力』に書いてあったけれども、自分自身は何かということを問いかける時期を、「青春」というらしい。ということは僕は今青春の真っ只中にいるのではないかと思う。 暇だからそういう無駄なことを考えるということは、忙しければ考えることがない。自分探しをしないようにするには忙しくすればいいのではないか。 よく、残業が問題になるけれども、本当にみんなが問題にしているのであれば残業というものはなくなる。残業をすることで、サルトルのいう「自由の刑」から逃れて、自分自身に「これでいいのだ」というめんざいふをあたえている。 ただ、僕はやっぱり忙しいという生活はどうしてもできない。暇で思索にふけるような生活を僕はしたい。

『悩む力』:何が生きる力になるか

『悩む力』の書評。多分に自分独特の解釈あり。 人間は、自分の人生に意味を感じられなくなると、絶望的になってしまう。 それでは、生きる力になるものはなにか。それはお金や学歴などではなく、「私」というものを積み上げていく作業にある。 自分というものを積み上げていく作業では、自我が目覚める。自我とは「私とは何か」を自分自身に問う意識である。 自我が強いあまり、他人との間に壁を作り、自分だけの城を築く人がいるが、その人は必ず破滅する。自分を育てるためには、他者との相互認証しか方法はない。

休日って何をすればいいんだろう

最近本当に休日にやることがない。行くところは行ってしまったし。何をすればいいかわからない。 平日は休日が楽しみで、リフレッシュしたいのに休日になると何もやることなくて平日を迎えてしまうのはよくないな。 仕事というのはお金を稼ぐということと、他人を助けるという二つの役割がある。なら、それ以外の時間はなんのためにあるか。 1つは、リフレッシュ。なんか軽い感じになったけど、体を休める、掃除をする、精神的に仕事から離れること。 もう1つは、自分を鍛えること。体も精神も両方。 僕は旅が好きだけどその理由は上記の二つを満たせるから。非日常の空間に行くことで、日常から離れられるし、客観的にもなれる。 ちょっとブログも書けなくなったので、ここで一旦休憩

どんな人生でも生きるに値する価値はある

色んな哲学者の本を見て、100人いれば100通りの考え方があることがわかった。そりゃそうか。老子が孔子と全く同じ考えなら、教科書には老子の名前は載らないわけだし。 でも、どんな哲学者でも、「生きるべきである」ということは共通している気がする。ニーチェだって末人になるのを避けるべきであると説いたのも、「生きなければならない」という前提があるから避けろと言ってるわけで、「人生は意味がない」という前提にたてば、末人になってもいいわけだし。 僕も今日同僚と話してて、今までの人生で後悔することもたくさんあるし、他の人を羨ましがることもたくさんあるけど、それでもその時の最善の判断をしたわけだから、今の人生を意味が無いと結論付ける必要はない。「どんな人生でも生きるに値する価値はある」ということを真理にすれば、どんなことをしても病気になるほど下には行かないわけだし。 ちょっと意味分からない文章だったけど、もうちょっと落ち着いてまた長い文章を書こう。

何をすればいいかわからない

友人と話していて、「何をしたらいいかわからない。」という共通の悩みを持っていることがわかった。その人と僕は同い年で独身、終身雇用ではないけど今はそれなりに安定している。同じような立場に置かれている人は同じように悩んでいるのかもしれない。 僕とその友人は、かなり個人主義な仕事で、ほとんど誰とも関わることがない仕事。だから自分の意思でどうにでもなるんだが、その分疲れることもある。自由はポジティブな言葉に聞こえるけど決してそんなことはない。サルトルが言うように、「自由」というのは重く、苦しい刑なのである。「何をしてもいい」と言われるが、何をしていいかわからない。かといって何もしなくていいわけではない。真っ平らな場所に降ろされ、どこに行けば良いのかわからない状態である。 その時、目的があれば簡単だ。僕は何をするために生まれてきたのか。その答えが見つかっていればそちらに進めばいい。しかし、人生の使命を知っているものはほとんどいない。 そんな時はとにかくやりたいこと、やるべきことをやる。花に水をやったり、ろうそくをつけたり、思いついたことをやる。「一体花を飾ることになんの意味があるのだろう。」と思ったりしてはいけない。そもそも意味というのは、最初から与えられているものではなく、まず行動があり、その行動を説明するためにつけられたいいわけなのだ。だから行動していれば人生の目的も次第に分かってくるかもしれない。

こういう盛り上がり、やっぱ嫌いやな〜

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イーロン・マスクって知ってますか?僕は名前ぐらいしか知らないけど、とにかく超すごい経営者です。スティーブ・ジョブズなんか目じゃないくらい。 そんなイーロン・マスクが、巨大ロケットを打ち上げたそうです。 しかもロケットを打ち上げたあと、ちゃんと戻ってきて着陸するっていうね。再利用可能なのかな。 打ち上げたのはイーロン・マスクの車らしいんだけど、車に宇宙服を来た人形を載せて、車にカメラもつけてたんだけど、 ちゃんとそのカメラに地球と車が写ってる。すごいCGっぽくて、逆に驚かない。 まぁそんなことはどうでもいいんだけど、最初の動画の、「イエーーイ!!」みたいな歓声、どうしてもすきになれないわ。なんか日本もJAXAとかそういう「おっしゃー!」みたいな感じになっててやめてほしい。サッカーとかも。 相撲みたいに、勝っても静かに礼をして終わるみたいなのが好きだな。