人に必要とされる感覚

会社んメールに、一日十数件の僕あてのメールが来る。平均して一日一回は誰かとミーティングがある。毎日忙しくしているが、その忙しさが嬉しい。僕がスウェーデンにいたときは2年間に20件ほどしか僕あてにメールをする人はいなかったと思う。あまりにメールが来ないものだから、受信箱を開く習慣もなくなっていた。

生きがいというのは要するに人の役に立っている感覚だと思う。つまり、生きがいとは人とのコニュニケーションだ。それが本当に世の中に有益なのかどうかは置いといて、役に立っている感覚というのが大事なんだ。

僕は大学院を卒業して、1ヶ月間ニートだった。それではいけないと思い、少なくともその時は健康であれば誰でも入れた警備員の仕事をした。家にインターネットを通す工事の警備で、小さなバンに工事の人と僕で車に乗り、工事をしている間車の警備をする。ほとんどが住宅街に車を止めるから、ほとんど車通りがなく、たまに車が通るとしても警備をするほどでもない。それでも法律で決められているのか知らないが、警備員は一人つけなければならなかったのかもしれない。

ある時、どうしても車を止める場所がなくて、コインパーキングに止めることになった。もちろんそこでは警備をする必要はないので、僕は車の中にいた。携帯を触ることもできず、寝ることもできず、じっと前を見ているしかなかった。このとき、僕は地面に転がっている石ころと同じ存在だと思った。この世の中に、僕がいなくなっても困る人はだれもいないなと。

そこから僕は博士課程に進み、その後スウェーデンでポスドクとして働いた。その間もほとんど僕を必要とする人はいなかった。今になってようやく僕に連絡してくれる人が出てきたことに本当に嬉しく思っている。多分、人に必要とされなかったことがない人って結構いるような気がするけど、そういう人はだれにも必要とされない孤独感というのはわからないんだろうな。

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