死ぬのになぜ生きるのか

#issue

自分のために生きるのであれば、いつか必ず死ぬのだから生きていても意味ないということになる。しかし、人類のために生きるとすれば、自分が死ぬとわかっても生きる意味はあると思う。なぜなら、自分は死んでも人類は継続すわけで、人類のためになにかを残せば自分が生きている価値があるといえる。

しかし、人類ですらいつか滅びるとするなら、生きる意味がまたわからなくなってしまう。人類どころか、地球、宇宙ですらも消えてしまう可能性がある。であるならば、僕がこうやって書いているブログも消えるし、作ったものもすべてが消える。政府が国をハンドリングしているのも、量子コンピューターを作っているのも、ダーウィンが進化論を唱えたのも全く意味がなくなる。であれば、やはり生きる目的、生きる意味はなんだろうか。

『人生に意味はあるか』には、まさにその事が書いてあり、人々の答えが分類してある。運類としては、以下の通りである。

  1. 悪魔主義
  2. 逃避としての信仰
  3. 人生の全的否定
  4. 人生の全的肯定

この4つの分類は、さらに大きく1,3,4と2に分類することができる。前半は「生きる意味はない」と断言するのに対し、後半は「生きる意味はある」と思い込む。人類や宇宙は滅亡するかもしれないが、神は不滅であり神のために生きるというのは生きる意味には十分になる気がする。

前半の「生きる意味はない」と断言する分類についても、「だから死ぬ」という派と「だから生きる」派に分かれる。ここで分類は、3と1,4である。1と4に関して全くの反対のようなイメージがあるが、「生きる意味がないから生きて何をしてもいい」という意味では同類である。悪魔主義は、それで世間的に悪とされている方向に進むが、全的肯定はかならずしもそういう方向にいかないだけの違いである。

「なぜ生きるか」という人生の意味に対は僕はまだわからない。

アーカイブ

もっと見る