アートで重要なのは感動ではなく公共性

『アートとフェミニズムは誰のもの?』で書かれていたことが納得した。

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 実は「感動」が作品の価値づけに関わっていないことにこそ、アートがもたらすパーソナルな感動を、この社会全体、あるいはこの時代の財産として評価し、支え、「みんなのもの」として残していくための工夫があります。

ただし、本書で言うところの「みんアートの世界では「好き」よりも、「個人所有できるダ・ヴィンチ作品」的な、他者を説得することができる条件で作品の価値を測ることがルールとなっているのです。 例にあげたダ・ヴィンチは、古今東西のアーティストのなかでもかなり広く一般にも知られていて、とても希少 (当然1点モノ) ですから、アートに詳しくなくともその価値があることは想像がつくでしょう。

逆に言えばこれは、自治体の公立美術館や、公益性の高いアート関連の組織や施設で作品を収蔵・展示する場合、勤務する職員個人の感動を優先させて収蔵作品が決められているとしたらそれは大問題になる、ということでもあります。


 

つまり、アートの価値や良さが生じるのは、「個人的な感動」 のむしろ逆。 歴史的な意義や新しさ、社会との関係性などの、共有可能なその作品固有の事情に対してなのです。 アート作品は、それまでに作られた幾多の作品や、アーティストを取り巻く社会の状況に応答して制作されるものであり、社会や文化といった文脈に結びついたものなので、そういったさまざまな「背景」を読むことが、そのイメージを読み、すなわちその作品を理解することになります。 個人的な感動、言い換えるならば、作品から受ける「印象」は、その鑑賞のなかの非常に大きな要素ですが、その「印象」はときに「思い込み」となってさらなる理解を妨げてしまうことさえあるのです。

アートを通じた個人的な感動の経験を守っていくことは重要ですが、それぞれに異なる個人的な感動を「みんな」で共有することはできません。だからこそアートは、「アートに関する知識を駆使して読まれる社会的な存在」として続いてきました。

ですから、ここではっきりさせなくてはならないのは、「印象」や「思い込み」を超えて作品を読むには、アートについての「知識」が必要なのだということです。


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