7つの習慣「主体的になる」に関して自分で思ったこと

読んだことあったが、改めて『7つの習慣』を読んでみた。まだ1つ目の習慣「主体的になる」だけだけど。

タイトルそのままのとおりなのだが、色んな本を読んで、色々つながってきた。

7つの習慣では、主体的であるの対義語として犠牲者であると書かれている。これは、アドラー心理学(について書かれた本)によると、犠牲者であることを自分で選んでいるのである。つまり、犠牲者であっても主体的はあり、主体的に犠牲者になっているということになる。

なぜ、犠牲者を選ぶのか。犠牲者とは、今の自分の生活あるいは人生は自分でコントロールできるのではなく、外部の環境によってコントロールされているという意味である。つまり、自分の力で変化することはできないと犠牲者は思っており、アドラー心理学的には自分で変化できないということを自分で選んでいるのである。

自分で変化できないことを選んでいるのだから、自分で変化したくないのである。なぜ変化したくないのか。それは行動経済学で説明できる。

行動経済学の考え方の一つに損失回避がある。利益を得る喜びより、損失を得る悲しみのほうがよっぽど大きいというのが損失回避の考え方だ。

損失回避によると、人間は変化することの利益より損失をあまりに課題に評価してしまうことで、変化できないのである。

しかし、リスクというのは本来振れ幅という意味であり、これは下にも上にも振れるということである。リスクを取らない限り損失もしないが利益も得ることができない。

ということで「主体的である」ということを言い換えると、リスクを取れって言うことなのかと思う。このリスクを取る際に、一番最悪の状況を想定して、その最悪な事態が起こっても致命傷にならなければ積極的にやっていけばいいのではないかと思う。

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